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<<   作成日時 : 2009/08/09 01:19   >>

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 ここのところ、午前様ブログになってきていて、怠惰一直線という感じ?増えないアクセスカウンターを見つめていると、次第に心ある数少ない読者様の逆鱗に触れているのかしら・・・と心配になってきたりします。まぁ、アクセス増やすような事はなーんにもしていないので、「こんな記事でも読んでもらえてる!!!!」とビックリすることの方が多いんですけど。

 さて、本当に怠惰ブログになってきていて、こんなんじゃいけないなぁと心を入れ替えてみようかと・・・。

 八月六日、私は仕事がとっても早く終わったので、実は瀬戸内に居ました。ぼーっと・・・・。本当にぼんやりと、海を見に行っていたのです。どこへ行くでもなく海岸線をぶらぶらって感じです。そこで見たのがあの記事になっています。夏の花火は、本当に大きな迎え火のような、送り火のような。お盆までに大概の花火大会が終わってしまうのは、何か意図があるんでしょうかね?

 64年目の八月六日、2009年の夏。

 世界中の人々が平等に持っている時間。過ぎた日はどんなにお金を積んでも徳を積んでも、帰ってくることはないし戻すことが出来ない聖域です。人類が月へ行っても、ロボットが手術をしても、核兵器から逃れる事ができても、時間だけは戻せないし死は免れない。
 時間が過ぎていく事の良いところも悪いところも、原爆の日には感じます。過ぎていって忘れてしまう事、風化してしまうことの恐さの反面、過ぎて行った日々で癒される傷もある。

 穏かな平和。

 瀬戸内の海を見ながら私はそんな風に表現したけれど、この平和の下に渦巻く穏かでないものも沢山在るのは事実。穏かだと感じるのは私の感情で、私の周りの世界、自分自身。

 静まり返った夜の凪いだ海面の様に、何故かとても気持ちが穏かな感じていました。静かに満ちる祈りに浸って、冷たく沈んでいた海からそっと浮上しようと動き始めた何かが、私の中に穏かな漣を立てています。
 心がとても深く抉れて大きく欠けていても、満ちてくるものはあるんですね。たった64年前のあの日に、もうhiroshimaには何もないと見えていたけれど、そこに確かに人々の息吹が、新しい命の芽があったように。

 今年の平和記念式典は、どうだったでしょうか?静かな祈りに包まれていたでしょうか。毎年変わる報道の形に、それでも意地をかけるように地元紙では「その日」が一面に載りました。この新聞にこの意地がある限り、hiroshimaは語り継がれていく事が出来る。一年にたった一度でも、思い出すことが出来る。
 
 hiroshimaに、人の心を重ねた今年。核戦争という同じ事は、人の尊厳が守られる限り、世界で起きないかもしれない。けれど人の心に起きる悲しみは、今もこの瞬間も繰りかえされて積み重ねられている。
 大きな平和を祈る事が出来るなら、身近にある小さな争いにも祈る事が出来るはず。

 マザー・テレサの言葉にあります。

 平和の為に何が出来るかを考える前に、自分の家庭を愛しなさいと。

                       

 マザーの言う「愛」は、何にも他に表現の仕様がない「LOVE」。たった一言の、俗世で使い古されたような「LOVE」が、マザーの言葉では途轍もなく尊いもののような気がして、恥ずかしく成ります。

 私がしっている「LOVE」は、マザーが知っていた「愛」とは違う・・・。

 何故かそんな気持ちに成ります。マザーが知っていた「LOVE」を本当に理解したのは、彼女の活躍を報道や本、写真で知った私達ではなく、道端で正に死に逝こうとしているその人。パンで満たされる飢えを持ちながら、パンで満たされない飢えをも併せ持った人々。
 パンを差しだすことでどちらの飢えも満たしてしまうのが、マザーの「LOVE」。こればかりは、満たされた人で無いとわからないものなんでしょう・・・・。

 2005年に公開された「マザー・テレサ」のDVDを見ました。

 一週間前に、インドの著者が書いた、唯一マザーに認められた自伝を読んだので、その続きで。マザーの足取りを知っていないと時間の流れに理解できないところがあったりする、映像美とは裏腹に不思議と難解に感じる映画のような気もしましたが、「映画」であるのに、マザーの燐とした頑固さに惹き付けられます。

 どんなに奉仕の場面を見るより、何よりマザー・テレサを感じるのは、ガンジス川で座り込み、「もう先へ進めない」と呟く場面です。「心から笑うことができない」と・・・。

 マザーが、私達と同じ一人の人間である事、本当に小さな存在である事、両の手に祈る事しか持って居ない、私達と同じ両手をもつ人であることを実感します。
 ただそこに、祈りの果実を実らせる事が出来るかどうか。

 静けさの果実は祈り
 祈りの果実は信仰
 信仰の果実は愛
 愛の果実は奉仕
 奉仕の果実は平和


 いいえ、きっと祈りが何を導くかは関係ないのかもしれません。祈りが何を生み出すか、それは私達の目には見えないもの。 キリスト教に限らず、人々は「祈り」を大事にしてきたものです。無宗教と思っていても、「神頼み」って言う言葉があるように。何を祈るか、何に祈るか・・・ マザーはそれさえも限定したことはありません。人が何を求めるかはその人の自由で、自分が求められた所へ神さまは自分をつかわしてくれるのだから。

 自分は紙の使う鉛筆。
 何を書くかは神の御心のまま。


 映画の中で、修道会を設立するにあたって調査にきた司祭に、マザーは語っています。私達は自ら、自分の持つ鉛筆で物を書こうと必死です。何かを成そうと必死です。
 何かを成す必要があるところにはその道が開けますが、何かを成すことが大切なのではなく、差し出すことにどれだけの愛(気持ち)を込めたかが大切・・・これは、私が一番好きなマザーの言葉。

 心を添わせた言葉も心を傾けた行いも、たった一滴だけれど、飲み物では凌げない乾きを凌ぐ水になれる。そう信じていなければ、気をつけていなければ、「心」が抜け落ちてしまうのを、私は良く知ってます。
 私はキリスト教徒ではないけれど、祈りに何かを変える力があること、マザーの言う「LOVE」の意味と存在、精神的な支え、そう言ったものをすんなりと理解することが出来ます。一歩踏み込んだ行動が出来ないのが、私の小ささなんでしょうけど。

 仕事だと思っているだけでは、かける言葉に心はこもりません。患者さんの身体に触れる手の平に、優しさが伴うことはありません。流れ作業、速さの追求、正確さ、そういったもので押しつぶされて、スタッフの行為に全く人間味がこもっていないのが気に成ったりします。家庭の不和だったり、大切な人との諍いで沸き起こる人間的な感情が、そのままダイレクトに患者さんへ突きつけられている現状。
 私もこんなだったのかなって、反省です。

 私の、パンでは満たされない飢えは続いています。心のどこかに、食べ物でも物質でも満たされないものを抱えています。自覚できているうちはまだいいのかもしれません。けれどその飢えがあるからこそ、誰かの幸せを祈ることがこんなにも救いになることを、教えてもらいました。
 変わったことで目に見えることがあるとするなら、私の髪の色が前より薄く見えるほど白髪が増えたという事しかないんですけどね。

 マザーの中にも、飢えはあったはずです。
 彼女もまた私達と同じ、限り在る命の持ち主だったのですから。


 いつか、そんな「渇き」を潤す一杯の水になれたら・・・・


 決して誰にも「I thirst」とは言わないけれど、確かにそこにある「渇き」。
 満たす事は出来なくても、せめて気付いてあげる事が出来たら・・・。



 Yes, We can.



 今年の平和宣言は、力強いその言葉で締めくくられていました。


 私ではなく、「私達」。

 核のない平和のもとに、微笑がないはずがありません。
 明日、あなたが笑顔で居ますように。

 明日もあさっても、あなたの毎日に、柔らかな微笑みがありますように。
 そしてあなたが毎日、自然に頬が緩んで微笑を浮かべる事が出来るほど、

 幸せで豊かでありますように。



 一日にたった一度でもいいんです。無条件で笑みが零れるような、そんな日々を送ってくださいね 

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