〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪

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<<   作成日時 : 2009/12/27 01:08   >>

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 サンタさんは、お休みでした。

 25日の朝、ロッカールームで

「昨日、クリスマスだし・・・ケン○ッキーのチキンを買いに行ったら、2時間待ちだったのよ。それでも買ったけど。6個かって4つくらいはあの人が食べちゃったわ。
 すごいのよ、24日のケン○ッキー。他のものは全部無しで、チキンだけ。予約の品物で客席が半分埋まってて!ビックリしたわ!」


 という先輩の会話が飛び交っていましたが、私は如何ともしがたい気分でついていけず、愛想笑いをしながら黙々と着替えていました。別に悪気は無いんです。自分の気持ちの問題なだけで
 クリスマスは、どんな文句にも、どんな悔しさにも、一欠片以上の幸せな苦笑いが含まれるものです 先輩にとってのそれが、何故毎日ではないのか、少し淋しく少し切なくなった一日です。

 クリスマスは、正式には25日。イブの方が盛り上がるお馬鹿さんな国ですが、教会では24日も25日も降誕祭が行われます。って、私一回しか行った事ないけどね。クリスチャンではないので。
 でもあの厳かなミサを、本当だったらもっと身近に体験できていれば、もっと気持ちも爽やかに落ち着いていられるんでしょうなぁ 近くに教会ないんだよなぁ・・・

 25日、仕事の後にお琴のお稽古に出かけ、厳しいレッスンの後お師匠さんから

「ケーキ買ったから、一緒に食べよう!」

 と、苺のホールケーキを一緒に食べました。お師匠さんが出してきたそれは、子供の頃に食べたものより、滑らかな生クリームもふわふわのスポンジもずーーーっと美味しくて、私の子供時代って、モノが溢れだす一瞬前の境界線のような時期だったんだろうなと考えて見たりします。
 
 モノが溢れて豊かになると、ケーキの味も歯ざわりも違ってくる。
 冬の苺の、不思議な甘さにも慣れてしまう。

 え?
 豊かさって、淋しいモノ?

                   

 クリスマスが一日過ぎただけで、町には門松がお目見えしています まだ木々を彩るイルミネーションが鮮やかで、片付け忘れたトナカイさんが玄関口を走って居たりする26日ですが、その隣に葉牡丹のみずみずしさと切り口新しい竹の門松が同居する、日本ならではの風景が街中に転がっています。
 落とし遅れたイチョウの黄色も目に鮮やかで、今年の冬は何だか春先の様な温もりとうきうき感が漂っている気がします。

 明日は待機当番日なので、今日はお昼前からずーっとお出かけしていました。週末や休日の憂鬱がまたじわじわと大きくなっているのが、何故だかとても怖いです
 随分前から、気持ちが落ち込んだままなのがしんどい 寝ても寝ても疲れが取れないし、休みの日ともなると、携帯電話ばかり眺めて暮らしている気がします。こんな時に限って友達からも一通のメールもなし いつもメールを書いているのは私のような気がしてくる、被害妄想
 所詮私は誰の人生にも必要じゃない人間だから・・・なんて自虐的になって布団に蹲っていたりするのが、馬鹿みたいだけど逃げ場が無くて

 あぁっ!!!!愚痴になってきている!!!

 という訳で、どこかへ出かけるしか気分転換できないのであります。
 今日は天気もよく、倉敷に用事のついでに、瀬戸大橋を渡って見ました

 目的も何にも無くぶらつくだけの私。何気なく立ち寄ったサービスエリアで見つけました。

「せとうち美術館ネットワーク」

 どこというでもなく、気が向いた町の美術館を回ろうと思って走っていたので、美術館という文字に惹かれて手に取ると、四国、広島、岡山、神戸、18の美術館を紹介してあり、スタンプラリーでプレゼント付き!

 「目的」には最高じゃないですか 来年の3月までに、スタンプを集めて応募する様になっています。車に戻って読んでいると、瀬戸大橋やしまなみ海道の沿線(?)に点在する美術館だけ巡っても応募要項には十分。

 ならば、18施設全部集めたら・・・・!?

 凄い『目的』になるかも!!!!

 ・・・という、単純な思い付きでした。ただそれだけの考えで、高知県立美術館まで行って来ました。えぇ、一人ですけど

 何故高知かといえば、遠かったからです。一番遠くではないんですが、四国の一番奥だったのです。四国では他、今治、高松の瀬戸内海沿岸。高知だけが太平洋を望む南国です。しかも瀬戸大橋渡って高知道に乗れば、2時間もすると高知です。

 行ってしまえ!時間はあるし!明日の朝までに帰ってくればいいんよ!

 という訳で、高知県立美術館で現在特別展示中の「蜷川実花展 地上の花、天上の色」を見てきました。
 高知県立美術館は、マルク・シャガールの作品が多くあることでも有名です。今年の常設展では一年間を一定期間に分けて、作品を衣替えしながら展示していました。12月は、エルサレムのステンドグラスの下絵です。
 
 特別展も見応えのある物でしたが、先に常設展から。

 マルク・シャガールといえば、『』。美術史でも、絵画集でも大概シャガールの「青」を強調されると思います。けれど、そうそうシャガールの青が見れるわけではありませんし、『青』は彼の人生の中でも一部分にしか過ぎません。
 高知県立美術館にどれほどの所蔵品があるのかは私も知りませんので詳しいことはかけません。今回の展示で「」を髣髴とさせるものが無いではなかったですが、殆どが彼の宗教に対する思いの込められたもので、「青」とは違う世界です。
 絵筆のタッチや色彩の陰影などは、流石にシャガールらしくあり、『青』を強烈に覚えている非熱烈の私としては、子供時代の面影をおじいさんに見るような、そんな雰囲気すらありました。シャガールの書く動物が、私は好きです。ロバ然り、羊然り。丸く柔らかで、擬人的でありながら野生を感じさせ、『個』を感じさせるあののっぺりとした印象が好きです

 それは置いといて、展示されている数点の絵画の中でも、私の印象に残っているのは、実は『』。『』ではなく、シャガールの『』です。時代背景とか、そんなモノは全然私分からないのですが、一枚だけ、赤で塗りつぶされたような絵があります。

 赤色は、暖色の最たるもので、火の色、血の色、引いては暖かさを示す色。喜びにも怒りにも表現を持つ色。

 シャガールのその『赤』い絵は、ただただ哀しかったんです。絵筆を運ぶ彼が、どんなにか悲しいんだろうかと思わせるほど、目を引き付ける様な涙に彩られていました。
 題名も、傍に付いていた注釈も忘れましたが、感じた哀しさだけが残っています。

 もともと気分がこんな落ち込み気味だからそう見えてしまうのかもしれませんし、そう穿ってみてしまうのかもしれませんが、特別展の「蜷川実花展」・・・・

 私は、その場に居ることができない程でした。芸術であるなら、じっくり眺めて余韻を楽しみ、写真を撮った彼女のその瞬間の思いや、ファインダーを除く彼女の息遣いまで感じ、被写体の瞬間の夢想まで感じることが出来そうなものですが、私と蜷川実花さんの芸術との間には、越えられない何かがありました。

 美術館では、スタッフの方(正式名称が分かりませんが)が各ブースに鎮座しているものです。特別展でも、各部屋に一人か2人、関係者が座って客達の動向を見つめていました。

 私はふと、その人達に対して思います。

 この空間に、よく平気で座っていられるな・・・・と。

 初めは圧倒的な表現と偽りの無い極彩色に肝を抜かれる感じで、口を開けたまま眺めているだけでしたが、作品からあふれ出すようにこちらに向かってくる勢いと、壮絶な訴えが、どんどん肩に残って重くなる。
 どんなに作品を大きくしても、どんなにプリントをぼかしても、そこから立ち上る熱が、まるで私には流行り病の高熱に似て感じられました。
 
 このアーティストはまだまだ若く、やりたい事が沢山あって、まだ立ち止まることも無いんだろうなと思えるほど。

 蜷川実花さんが何歳で、どんな経歴でという事も、申し訳ないですが私は全然知らなくて。ただここ最近名前を聞く写真家であり、映画監督だなという程度。すいません

 だからなのか、私の気分がブルーだからなのか・・・・
 押し倒されるような勢いに、私は付いていけませんでした。

 芸術としてはすごいんです 写真がこんなにも撮り手のの意思を写すものなのかという程の表現力で迫ってきます。
 もともと私にとって写真と言うのは、一瞬を切り取るものではあるけれど、その一枚に撮り手の何物も映りこまないものが写真だと思っていました。写される側の思いや想像、会話まで切り取るものが写真というものでした。ポートレート然り、自然然り、動物然り。丁度岩合光昭さんの写真がそうであるように。

 けれど、蜷川実花さんの写真は違います。彼女の意思、彼女が表現したいものが、言葉にはできないけれど伝わってくる写真です。それに、耐えられなくなるんです。

 『終り』。

 私が感じたものを簡単に言えば、それなのかもしれません。美しいものの美しい姿を切り取っておくのは、その美しさが未来永劫のものではないから。いつかは消えてなくなり、その瞬間カメラに収められた美しさは次の瞬きの瞬間に消え去ってしまうものだから。

 人間であれば、『死』があり、花があれば「枯」があり・・・・。
 
 部屋を追いながら進んでいくと、一番最後に「最新作」がやってきます。
 初期の頃から見ていて、最後が一番重く、一番強烈な部屋です。

 この部屋に30分も居たら、私はきっと発狂してしまうだろう。

 そう思える何かがあります。初期の頃の鮮やかさや艶やかさよりも、極限を見ようとする視線があります。その先に辿り着くのは、どうしようもない「終り」の未来・・・・。それを見せ付けられるようです。
 それが「死」であるなら、私はそれでも理解できたかもしれませんが、蜷川さんが考えているのは「死」とは違う「終り」のような気がします。人の「死」でいう所の、「腐敗」のような・・・・。
 上手く言えないんですが、華やかで鮮やかで、彩り豊かな彼女の写真が、シャガールの真っ暗な絵画よりも切実な「終り」を抉っていました。

 一階に降りる階段の下に、一面に貼られたポートレート。写された人の誰が誰だか全然分らない私ですが、初めの一枚から一貫して変わらず、そこに「蜷川実花さん」という一人の撮り手がいます。

 こんなに自己主張するカメラマンって、なかなか居ないものですよね。

 「蜷川実花さんといえば土屋アンナさん」といえるのかな。撮り手の自己主張に一番負けていないのが、彼女でした。過激なポーズや派手な衣装は、そうはいっても何も語りません。土屋アンナさんの写真だけは、何故か不思議な「融合」が見えた気がします。何にも頼らず、一対一の表現という感じであり、また見る側にも同意を求めるような、そんなポートレートでした。

 アーティストと言うのは、得てして「不思議ちゃん」なのでしょうね。

 蜷川実花さんにシャガールのような「黙する表現」を求めるのは、時期尚早なんでしょう。若さのままに、勢いのままに、走り続けるのが今の時期なのかも。この展示の短い間だけでも、彼女の表現したいところの何かが変わっていて、表現の仕方もまた少しだけ変わっているのが分かります。
 横並びではなく、アウトローでも自分なり、自分らしさ・・・それがいつか、時代のスタンダードになるんでしょう。

 見応えがあります。あるからこそとても、消耗します。
 どうぞ、蜷川実花さんと対峙するつもりで、ご来場ください。

 それでも気付いたら、1時間半美術館に居ました。
 結構、体育会系な展示です。

画像


 ミュージアム・ショップで買ったクリアファイルが、自分へのお土産です。とても素敵な美術館でした。明日から休館日ということもあってなのか、展示が展示だからなのか、若い女性が多かったです。

                     

 家に帰りついたら、22時を過ぎてました。帰りに本屋に寄ったのが間違いだったみたいです。

 柚子茶をいれて、晩御飯を食べて、ブログの記事を書いていたら、日付が変わっています。

 年の瀬とは気付きにくいですが、2009年も終わるんですねぇ。
 何にもなかったようでいろんな事があって、いろんなことがあったようで何にも変わっていないような私?でも、変わってないはずないよね。
 昨日の私と、明日の私では、多分少しだけ、1oでも0.5oでも、どこか違う。

 髪が伸びて、ツメが伸びて、お肌が老化して・・・
 身体の細胞は少しずつ作りかえられる。

 あの人を知っているのは、私の中ではもう記憶と心の痛みだけ。

 姿を見つめた瞳の細胞も、
 声を聞いた耳の細胞も、
 挨拶した喉の声帯の細胞も、
 グラスをぶつけて乾杯した、あの日の私の全ての細胞も、
 今日の私には一片もない・・・・

 脳細胞の中の電気信号だけが、私の中の「あの人」。
 音を立てて崩れては積み、崩れては積み上げた心の中だけが、
 私にとって、「あの人」の在る場所。



 今年の最後まで、今日の最後のように祈ります。

 彼の人に幸せを・・・
 私に安らかな眠りを・・・

 全ての人に、平和と愛を・・・・

 
 


 本音、声が聞きたい・・・・声を、聞かせて・・・

 あの日のように、話を聞かせて。

 あなたの、物語を・・・
 



 どうか

 声を、聞かせて

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