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zoom RSS 落ちのない話。

<<   作成日時 : 2011/02/05 23:41   >>

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 久しぶりに日勤をしたら、物凄く物凄く忙しくて、へとへとになった。高血圧で頭蓋内出血をしている患者さんの血圧コントロールをしているところへCPA(院外心肺機能停止)患者さんの搬入。

 誰もいないし。

 最近私はCPAづいていて、残念ながら助けられない患者さんばかり見送っている。それでも次から次へと患者さんがやってくるんだけど、寝る前には本当にあれでよかったのかなぁと思い返してしまう毎日。治療の方向や判断は医師がするにしても、医師と言う肩書を持っているので私たちはそういう場面で「医師」も「研修医」も同じに見てしまう。私たち看護師が一分一秒の反応の速さで仕事するのと同じで、オペ室の時代の私の言い分である先読みによる反応の俊敏さと同じで、医師もその時の判断の速さってのが必要。
 「医師」と「研修医」を同じに見てしまうので、その反応の鈍さにやたらと時間が長く感じられる。けれどもリズムチェックの2分はあっという間に来てしまう。どんどんどんどん患者さんの状態は落ちていくのに、それについていけてないんじゃないかと思ってしまう。

 だからと言って反応の早い医師と仕事をするとその命は救えたのかと言えば実はそうじゃなくて、ここ最近のCPAは、どちらかと言えば最後のあがきのようなもの。ダメだと悟る前に頑張らなければならない関門のようなもの。私たちにとっては最後の望み…それは本当に本当にクモの糸より細くてもろいものだと気づいているのに、縋らざるを得ないもの。患者さんにとっては、最後これほど患者さんは頑張ったのだと、安らかな次の生(輪廻転生にしろ、天国の門にしろ…)に向かう最後のけじめみたいな・・・。

 難しいんだけど。助かる望みのないCPAと、助かりそうなCPAってのが、やっぱりあって・・・。心肺蘇生法の効果が問題になるのは助かりそうな場合で…だからといって助からない人のACLSを早々に辞めてしまうわけにもいかず…。ことに研修医では、引き際も分からないし、闇雲に「命」を追ってしまう。その「命」はまさに心臓の鼓動そのものだと言わんばかり。
 安らかな死、穏やかな死、そればかりではないことを痛感するし、人の手でこんなにも人の死が残酷な方へ壮絶なものに変わってしまうなんて…って気もする。

 医療者にも引き際がある。命の瀬戸際でどうしようもない時、去っていく命を見送る決心をしなければならないときがある。そこをどこにするのか。その判断はまだ研修医には難しく、看護師にはどこか感情的なラインが残ってしまう。
 まるで月に導かれて潮が満ちたりひいたりするように、自然に「あぁそうか。」と思える引き際を引ける医師は、きっと誰よりも辛い思いをしてきた人なんじゃないかと、こんな時思う。遮二無二頑張る研修医の肩を「もういいよ」と引くときも、「頑張ったな」とねぎらうときにも、その医師の歩いてきた道のりの険しさが見え隠れする、そんな先生もいるものだ。

 命って、何?

 CPAの患者さん、必死で『鼓動』を追おうとする医師たちの間で仕事をしながら、最後の灯の軌跡を残そうとする看護師。記録にペンを走らせるとき、生きて欲しい、生き返って欲しいと思うよりもむしろ、その人の行く末、この医療の行く末、結末まで、しっかり見届けようとする気持ちの方が強い。どちらに転ぼうと、どう結果が出ようと、見据えている少し先の未来が現実になろうが裏切られようが、どちらであってもその患者さんの最後の証を残すのだと思う。
 大抵最後に警察の人が、医療を圧縮するように患者さんを連れて行ってしまうのだけど・・・。

 CPAが続くと、引き寄せられるように続いてしまう。こういう経験は医療者なら結構誰でも持っているはず。マニュアルとかアルゴリズムとか、救命の流れはできているけれど、その人にとっての正解なんてどこにもないのが医療。
 「研修医」が「医師」になるには、この辛さも無力さも糧にできるかどうかなのだと思う。そして看護師も同じ。命に寄り添うには、自分の無力も不甲斐なさも、時にも間違いも、全部受け入れて認めなくてはいけないんだと思う。

 命に向き合うって、嘘も偽りもなく、裏も表もないもの。

 ただその人と私の世界。

 私の記録に、その人の命の証が残ればいいなと思う…。

                
 救急の場面では、最期を看取る、という穏やかな響きの言葉はありません。私が望む終末期医療が、一部の人たちにのみ有効で、一部の人たちにとって死は抗うことのできない暴力にも似た激しさでやってくるもの。
 だからこそ、その人が生きていたという事、最後の最後まで生きようとしていたことを残せたらと思う。屈したわけではなくそれが「運命」ならば、その運命の軌跡を残すものが救命なのかもしれなぃ。その軌跡の先に本当の『救命』があるなら、それは素敵な事ではあるんだろうけど。

 昔、外科医が話していたこと。

「助けるなら、社会復帰までを見据えていかないといけない。」

 どの先生も、ただ助ければいいと思っているわけではないはず。助けた命が社会に再びどって行けるかどうかは、大きな問題。鼓動は戻ったが意識がない、目は開けたが寝たきり、そういう例だってある。それを助けたと呼ぶには、医療者にとって少し苦いこと。だからと言って助けなければよかったのではなく、その後の質によりけりかな・・・。その後の生活の質まで助けてくれる医師と出会えたら、それは素敵な事なんだけど。

 家族にとっても、どんな状態であれ助かってくれた方がいいだろうし、猛スピードの死よりも、成るべく緩やかな死の方が向き合いやすいものかもしれない。

 ポルノの曲にもあったけど、生まれてくるときはみんな同じなのに、死ぬときはみんなそれぞれ違う。生まれ方はみんな同じなのに、死に方はみんな違う。

 これには、どんな意味があるのだろう?

 色んな病態で運び込まれる患者さんに対応しながら、生き方に正解がないように、死に方にも正しいものなんて一つとしてないんだと思う。そしてどちらも、思うように選べない。生き方を選んでいるように見えても、本当は違う。自分が選んでいるように見えて、実は違ったりするもの。

 導かれているのだろうね・・・晴一くんが言う、「愛が呼ぶ方へ」。

                      

 突然話は変わるけれど、暇なときにぶらぶらとネットサーフィンをしながら、本のレビューを見たりする。読んだ後の感想とかを一般の人たちが書いている、あれ。
 
 最近思うこと。一般の人たちが読んだ感想なんかを書いている物だから、身近に感じやすいのは良いんだけど、本の内容や大切なフレーズ、キーポイントをさらっと書いてしまっていて、どこかネタばらしのようなレビューが多いんでだな。 あらすじ、帯びのフレーズ、などで公表されている程度の事は確かにかいてもいいと思うけど、その物語の全部の筋や大切なポイントなんかを書くのは、読んでいない人にとってどうかと思ったりする。

 事実、私が読みたいと思った本の内容がばっちり書いてあって批評されていたり、私が読んだ本で、読まないとわからない起承転結の転の部分だったりを取り上げて書いていたり、そういうのが目立って辟易。そんなんじゃ、読みたいと思う前に『読んだ気』になって味気ない。まるでそのレビューを確認するだけのような感じ。本当の評論家はそんな無粋なことはしないから、ちゃんと本の持つ面白さや大切にしたいことやテーマを弁えたレビューを書くので、それがちゃんと雑誌に載っていたりするけど、そういうのはなかなか気軽に読むことができない。

 難しいことや鋭い視点からのレビューもあって、やや批判的だったり「こんなとこまで考えて読んでる人がいるんだー」とびっくりしたりして面白いんだけど、レビューを書くときはどうかその本を面白く、読んでみたいと思うように伝えてもらいたいと思ったりする。
 なんて書きながら、自分も結構いろいろ書いているなぁと反省。これからキをつけなくては・・!!!

 あらすじが分かってしまうようには書いていないつもりなんだけど、書いてる人は多分にそんなもんなんだろうね。そういうつもりじゃないって言うんだろうけど。

 でも、とある本のレビューを読んでいて、

「それを書いちゃだめだろう!!!!!」

 と怒り心頭だったので、ちょっと呟いてみた。
 つぶやきどころじゃないけど。


 という、オチのない話でした。
 

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