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<<   作成日時 : 2011/03/30 01:01   >>

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 震災を契機に、私の仕事も結構な勢いで変革しています。といっても、震災の対応とかではなくて。勿論こっちはお気楽な西日本ですから。

 中途採用で、一年の半分目から始まった今の仕事場の仕事ですが、年度末を迎えて新しい年度になろうとしている今、新しい人たちが入ってくるというので急ピッチで私たち「中途採用組」のお尻に火をつけようとしている輩がいます。その名も上司。

 異動の季節になりまして、研修医も半分がごろりと入れ替わる、またそれがとても当たり前と言うのが今の病院。研修医は良いとして、そもそも医師が移動なら看護師も移動でして。辞める人あればローテーションする人あり。うちの部署では辞める人はいないものの、新しく入ってくる人がとても多くて、4月の勤務表はようやく28日に発表になったというありさま。
 しかも、その過酷な勤務に皆が言葉を亡くしました。

 と言うわけで、そろそろ使い物になってきただろうという中途採用組の私のお尻に火をつけた上司。

 日本の震災を予言したかのように、実は震災当日から私の苦難の道のりも始まっていたのです。

 リーダー研修と言う名の火ぶたが切って落とされました。もう、筆舌に尽くせないほどストレスで、それに追い打ちをかけるように震災で人は足りなくなるし医師はいなくなるし、被災者だと言って何故か東京からやってくる人々。まぁ、考えれば東京も被災地か?と皆で半ば強引に納得しながらですが、リーダーとして一日救急外来を一手に引き受ける仕事はもう筆舌に尽くせませんわ。
 おかげでブログも間遠になり、だんだん愚痴しか書けなくなり・・・。

 次第に、街頭で募金を呼びかける人たちにも、声を聴いているだけで疲れてしまう始末。これを書くとうまうまさんは悪い奴だとかいけ好かない奴だとかの非難を受けるかもしれないけど、呼びかけている街頭募金に小銭を入れる入れないで、いい人と悪い人と決めつけられているようで、あまり街頭募金の呼びかけは好きじゃないんです。そりゃ、有名人が自分の握手とかおしゃべりとかを提供しながらの募金活動って、何となく納得できるのですが、素人さんの思いつきのような街頭募金がちょっと曲者。
 呼びかけている人たち、それに賛同してお金を次々と入れて行く人たち、それはそれでとても素晴らしいことだと思うし、とても素敵な光景で、何もしないよりは街頭に立って募金を呼びかける方が大切なことだと思います。けれども、その行為の裏に、人を二つにみられているようで、そして『優越感』『劣等感』に分けられるような差別意識が働いるようで、何だか痛い気持ちになったりしたのです。

 私の気持ちが荒んでいて、とてもじゃないけどいい気持になりないときだったからかもしれないし、ちょっと金銭的に困っている時期だったりしたりしてっていう、琴らの事情っていうのもあったのかもしれないし、精神的に被害妄想を抱く時期だったのかもしれないけど…。

 いいわけじゃないけど、募金活動は私自身もしています。見かけた募金箱にも入れているし、病院で募って義援金袋にも入れましたし、インターネットなどを通じて、気が付いたときや余裕があるときに送金をしています。だけれども、その募金活動の前を通り過ぎるだけで、「悪い人」になってしまう。そう見られているように思えてしまう。
 募金箱の前を素通りすることが、何故かとても悪いこと、人に見られてはいけない非人道的で極悪のような気持ちにさせられる。

 こんな募金活動って、在りましたっけ?

 ・・・・ということをいっても仕方ないので、見れば片っ端から募金していけばいいんじゃねーの、と言う意見もあるかもしれませんけどね。

 募金をする、そのお金は確かに義援金として被災者に届く。同じ重さで、生活しているお金も、物を買うお金も、経済の支えになる…そういうものなんだけど、どうもそういう風に思えなかったりする。
 まぁ、今私の気持ちが暗ーい感じだからそう思うのかもしれないけど。日本人の助け合う気持ち、支えあう気持ちはとても凄いことで、そういう思いは日ごろ薄れていてもこういう時に、まるでそれがDNAに刻まれているようにむくむくと湧き上がってくるものだけど、最近はそれが押し付けになったり、善意の強要になっていたりしないかなぁと思ったりする。

 いいわけじゃないけど、今その募金箱に入れないでいる人も、実は別の募金箱に入れている。今、声を張り上げて募金を呼びかけるあなたの前を素通りしていったとしても、物言わぬコンビニの募金箱に小銭を落としているんだ。

 そう思ってくれる人が何人いるだろうか・・・。

 何かしたい思いは、誰にだってある。
 何もないからお金を出すしかなくて、唇をかむ思いをしている人もいる。

 それぞれの善意が、それぞれに重荷にならなければいいなと思う。

                      

 さてはて、うちの病院では相変わらず医療支援に出かけていてスタッフも減っているので、4月の勤務がまた二重に大変なことになっています。

 愚痴を言っても仕方ないので、三月のようにただひたすら耐えて働くしかないのですが、病院っていうところはある意味人を助けるところでもありながら、人を変にさせるところでもあります。

 そーですよ。

 病院ってなんだらほいって病。(←勝手に私がそう呼んでいる。)

 白衣をみると血圧が上がるというヤツに似ているけど、実はもっと深刻で、この病気、進行性なんですわな。簡単に言えば、日ごろ年の割にはしっかりしていて認知症もない人が、病院に入院ってことになったら途端に

「あの人やっぱりちょっとあるよね?」

 と看護師さんから言われてしまうというものです。つまり、初期の認知症が、入院をきっかけに発症してしまうという事。逆に見れば、日常の自宅での生活と言うものが、どれほど認知症を予防してくれるかという事です。日常生活を地域で生きていくという事が、どれほど人を人足らしめるかという事です。まぁ、認知症の人だって人なんだから、人が人であることは変わらないけど、健康であれ認知症であれ、その人がその人らしく(認知症であっても認知症を持っていその人らしくという事よ。)生きるために、コミュニティでの日常生活と言うのがどれほど大事かという事です。といっても、都会ではコミュニティなんぞゴミ置き場掃除くらいしかないという事もあるかもしれませんが、それでも誰かと生きているという感覚ですよ。

 今度の震災でも、避難所であれ仮設住宅であれ、『コミュニティ』を壊さないということが大前提として物事が決められています。勿論、阪神や淡路よりお年寄りが多いというのもあるんでしょうけど、それだけコミュニティ、地域と言うのはとても大事だという事です。

 病気の発症にしろ、災害時の支えあいにしろ、人とのかかわりの中で生きていくという事、そしてその中の一員であるという事が人間の一つのアイデンティティの形成要因であることは確かです。

 ではなぜ病院がコミュニティではないか。勿論、生きてきた土地や部屋ではないこともありますが、入院によって弱者となった(なったわけではなく、そういう役割を与えられたという事になるんだろうけど)患者さんにとって、医師や看護師や他の患者、コメディカルとのかかわりだけではコミュニティとして成立しないという事なのですよ。

 それか何故か?まぁ、勿論これは私の考えだから一般論ではなくて、入院して変容していく患者さんを見ていると、「病院って治すところじゃないよなぁ」と思う事が多いので感じたことなので、結構現場の見方です。だから医療現場でそんな場面を見ている看護師さんには納得していただけるかなぁと思ったりししますけど。・・・でも個人的な考えよ。
 何故かと言えば、患者と病院関係者って、結局は「治療する、治療の対象になる」という関係だから。私から見れば患者さんって、自分の力で頑張って治っていくようなもので、別に医療は直接手を加えるわけではないのです。勿論、薬を投与したり手術をしたりすることはあるけど、そこから「治る」のは患者さんの力。治る、治らないで表現すると、治らないで終末期になると自分の力が足りなかったせいだと思われては心外なんだけど…。
 どういう状態になろうが、医療が関われることって患者さんの生命力を弾きだし、生きて行くという生命のともしびを援助することなんです。直接的に医療が余命を伸ばしたりすことはできないし、これを飲んだら一生平気っていうものでもないのですわ。表現が難しいんだけど、これって分かってもらえるかなぁ…医療って、本当に手助けでしかないのです。

 だけれども、病院にはどこか『施し』『施される』という一方通行のようなイメージが強い。看護師さんが、医師がダメと言ったらだめ、そういう事で我慢させられていることも多いのではないでしょうか。

 そこに患者さんの「自分の意味」っていうものが生まれるかどうか・・・「自分が今ここに居る意味」。そりゃ、病気を治すためですよっていう事なら、精神的にタガが外れることはないでしょうけど。

 地域で頑張って生きてきたお年を召した患者さんにとって、突然入院ってことになって何かをされるばかりの側に立ち、あれはダメ、これはダメと指示されて、広い病室でポツンとひとり、時間も有り余ってテレビしか友達がなくって生活になったら、やっぱり病気以上のダメージがあるんじゃないかな。

 とある本で、終末期の患者さんが寝たきりになり、ただ天井を見て過ごすだけの毎日、痛みはコントロールされているのに、やせ細り出歩く筋力も尋ねてくれる人も外へ出してくれる人もない。そして

「何故私はここにいるのかしら?」

「何故私は生きているのかしら?」


 と思う毎日がつづいていたある日、若い看護師さんと話していた時、何の話からか偶然に彼女の悩みに病床で耳を傾けることになり、何気なく思いついた励ましの言葉をかけてあげる。

 その言葉を受けて、その看護師さんから

「ありがとう」

 と言われる。

 あぁ、私でも役に立つことがあるんだ。
 私でも人からありがとうと言われることができるんだ。

 その時の感銘を、多分私たち健康な人間はあまり知ることはないんじゃないかと思う。

 苦悩していたベッドの上の前半の患者さんの気持ちがそのまま、突然入院になった年配の方の気持ちと似ているんじゃないかと思うんです。
 
 何もできない、何も役に立たない、何もかもを取り上げられ、一人病気になってしまった自分。

 認知症の発症にはあまりに寂しい契機だと思いますが、十分な原因になりえるんじゃないかと思ったりします。そうして入院後に性格が変わっていく様子を見ながら、そのままの状態で退院していかざるを得ない状況を見送りながら、私は何とも言えない気持ちで寂しく思うのです。

 だから、地域って大切だなと思う。江戸時代にも認知症ってあったかもしれないけど、そうとは知らずに皆が支えあって笑っていたんだろうなと思うと、何はなくともその豊かさが再燃してくれればなと思うのであります。そういうDNAの発露はないものかな。

 人は、誰かにいつだって認めてもらいたいもの。
 自分が生きている意味は、誰かとの関わりの中でしか理解できないもの。
 だからこそ、人って一人じゃ生きられないもの。

 そういう風に、神様はつくったのだろう。初めにアダムを作り、そしてイブを作られたのは、男と女という子孫繁栄のためだけでなく、人は一人では何もできないという事を知っていたからなんだろう。始めに人間でなく動物を作られたのも、人間でなくては出来ないことがあったからだろう。

 この世に人間が必要でなかったとしたら、人間がこの世に対して「悪」でしかなかったのなら、原発を作り、核を作り、絶え間なく戦争を繰り返し人を欺き殺そうとも、人間にしかできないことがあるからこそ、この世を動物だけにしなかったのだろう。

 全ての事に意味がある。

 そういう事をしる、毎日。
 でもすごーーーーく忙しくてせわしなく、
 気持ちが沈んでいる毎日。

 そんな日々にも、意味があるのだ。



      ・・・・と思う・・・・(´Д`)

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