〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪

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zoom RSS 記憶する心臓

<<   作成日時 : 2011/04/13 22:43   >>

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 夜勤夜勤で4日間を過ごした後ま休日。うららかな午後の陽ざしを浴びながら、友達とお外でお弁当を食べ(本当に路上で)、眠くなるほどまったりしていた午後の初め。

「暇だし、特に行くところないしねぇ。」

 という事で、目の前に見えていたここ、行ってみました。

画像


 ・・・・どこか分からない?下から見たら、確かにこんな風に見えるんだけど。

画像


 ここです。大阪気質の象徴ともいえる、通天閣。

「すんどるけど、いったことないし。」

 と、友人も。
 実は動物園に白熊を見に行こうと話していたのですが、ちょうど休館日。公園位なら覗いてお花見でもできるかなぁと思っていたら、公園も閉まっている状態で、同じように昼間に繰り出してきた人たちと

「お役所仕事やなぁ。」

 と、文句を言っていたところでした。
 まるで観光客のように商店街を歩いて向かいながら、まさにこここそ大阪、関西圏と言う感じです。下町というにはまだお綺麗で、笑いそうなほど吉本感あり。
 友人のお母さんがここ界隈を歩いた時にはドン引きだったそうですが、うちの母親もきっとドン引き状態で早く帰ろうっていうに決まっているようなところです。(父は大阪出身なので多分平気だ。)

 苦笑いしか出てこないような大阪っぽさで、関西圏にいるとはいえちょっとびっくりしました。通天閣と言えば串カツらしく、誘われるお店はほとんど串カツが売りの居酒屋だったりします。
 けれどもそこはお笑いの街。大阪っぽさの一つでもあるんですが、通天閣に登ったら入場券と一緒に通天閣のパンフレットが渡されて、そこに付いていたのが写真のペーパークラフト。パンフレットの作りも面白いし、可愛いし、おざなりなパンフレットとは違ってやはり大阪っぽさ、楽しさ満点と言った感じです。

 楽しく思っていたのはつかの間。通天閣本体横のエレベーターから、展望台に上るための入場ゲートに向かう道すがら、カバンの中で携帯が・・・。

「メール?・・・にしては長いこと鳴るなぁ。」
 
 電車に乗るためにマナーモードにしていたので、電話なのかメールなのか分から無かったのですが、あまりにもしつこくなるので電話と判明。 私の携帯電話が鳴るなんて、めったにないこと。ってか、いつも電話の相手となるはずの友達が隣にいるので、その状態でなる電話と言ったら、楽しいはずがない。

 パカッとしたら、病院



 病院!!!!????




「・・・・・・・・・・・もしもし?」

『あ、うまうまさーーーん!!!!! 今いい? お疲れ様〜〜〜。』

「・・・お疲れ様です。お電話、なんでしょう?」

 大分疲れたハイテンションの上司からの電話でした。
 私、最近何かしでかしたっけ!!!!!?????

「なんでしょう?なんでしょう?私なにかしましたっけ?」

『ううん〜、なんも。でもね、お願いがあって。』

 有無を言わせぬ・・・・・

『今日、夜勤できる〜〜〜????』



 キタ――――――――――っっ!!!!!!(゜Д゜ノシ)



「やややややや夜勤ですかっ!?」

『うん。ホント―――――――に申し訳ないんだけど。休日は後で振り返るから、今日の夜勤!!!!今日の夜勤お願いっっ!!!!』

「今日、これから勤務ですよね?」

『うんうんうん、今日の夜勤。』

「・・・・・・わ…分かりました…」

『ありがとーーーーー!!!!!!! 待ってる

「・・・・・はい。」

 電話が切れて時計が表示され、蒼白。
 時間ないやんけ!!!

「ごめーーーーんっ!!!! 今日仕事になった!!!!」
 
 住民票取得の通天閣ロボに夢中の友人親子、

「そりゃいけん!」

「ごめーん、ごめーん!!!!ことわれんかったーー!!!」

 と、バタバタと通天閣を登頂し(それでもぎりぎりまで登ろうという事になるあたり、抜かりない)、バタバタと電車に乗って帰ってきたのです。大急ぎで家にたどり着いて荷物をまとめたら、もう仕事に行かなきゃいけない時間!!!!

「うぉー――!!!! 仮眠してない―――!!!! これで連続6日夜勤!!!!」

 ばたばたと仕事場に突入したら、日勤の看護師さんから

「うまうまちゃん、大変だね…」

「また夜勤?」

「あれ?昨日もいたよね?」

「今日勤務?」
 
 そーです、そーです。その疑問全てYesです。
 私は世間でいうところの

 準夜深夜準夜深夜準夜深夜

 しかもこの日は朝8時に起きて仮眠もとらず16時間勤務に挑む事に。まぁ、昔の職場では24時間以上勤務だったので、それを思えば出来ないことはないんだけど。

 出来ないことはないんです。人間、徹夜で働くことだって不眠不休で働くことだってできるのです!やれと言われれば何度でも夜勤を繰り返すことはできるのです。日勤夜勤夜勤日勤でも、とりあえずできるのです。

 ・・・・ただ、やるだけ。
 そこに正常な判断は生まれ難い。

 ここでいう『正常な判断』って、善悪の判断なんかのミス・トラブル用の異常判断のことではなくて、仮にも私一応国家資格のナースですから、いくら絶えず崖っぷちとはいえ生死にかかわるミスはしませんことよ!!!!(しないと思う…いや、しない。多分しない…おそらくしない…しないつもり…してないつもり…???) 
 こういう場合の私の言う正常な判断って、常識の判断力がないという事。考えもせずに口が勝手に文句を言っていたり、廊下の幅があやふやだったり、曲がれると思った壁にぶつかったり、いつも使っている棚に頭ぶつけたり、乗り越えられると思った段差で躓いたり、角を曲がり損ねてどぶに落ちたりするということです。普段何気なくしている日常動作の境界線が曖昧になる。物の値段の高い低いもあやふやになるので、この場合の買い物は厳禁。
 それでも忙しさは待ってくれず、緊急動員とはいえ容赦なく、フル稼働で忙しく、正常な判断力の出来ない私は、入院患者さんをお願いされて

「あ゛? はぁ? なんですとぉ!?」

 と答え、先輩に向かって思わず舌打ちしそうになったのであります。
 ・・・・・しかしそこは私の立場上必死に必死に飲み込んだ。死ぬかと思った。

 次の日、電話をかけてきた上司から

「非常に助かったわ!!!! むっちゃ助かったわ!!!!」

 と連呼されました。けれども、私がするはずだったその日の日勤が都合つかず、スタッフ−1。流石にいくら私でもそのまま日勤は無理。

 夜勤あけ、宅急便のにぃちゃんが玄関チャイムを連打されてたのも気づかず、ベッドにたどり着けずに泥のように床に這いつくばって眠っていました。

 春先、まだ時折寒いこともあるので要注意。
 何となく腹が痛いのは、このせいではなくて、晩御飯を失敗して異様に脂っこかったからだと思う。

                      

 それでもまだ私の夜勤三昧は続くのでありまして、実は四月の最後まで日勤がないのです。合間に連休があるけれど残りは夜勤に費やされます。うちの部署はもともと一般の病棟よりも夜勤回数が多いことで有名。ありえん回数の夜勤をこなしている部署でもあります。そのぶん残業がないのがメリットかな。

 さて、医療機関はいつも忙しくバタバタしているのですが、今週に入ってと言うかここ2.3日で世間を騒がせたニュースがありました。って言っても、東北・原発関連の方が大きく扱われている毎日なので、片隅で何とか皆の頭に引っかかっている程度なのかもしれませんが、私は興味深く見ていました。

 ご存知の方も多いと思いますが、10代から10代への脳死心臓移植です。

 心臓移植、が話題なのではなく、臓器移植法改正に伴い、未成年の臓器提供・移植が可能になった(と言っても、どこまで可能かどうかは不勉強ですけど)、初めての症例と言うことで話題でした。
 この話は、残念ながら脳死と判定された患者さん、その親御さんが大きな決断をしてくれたところから始まるのでしょうが、そうした患者さんに向き合い、ご両親に移植の話をされた医療従事者、その後のケアをしていただく医療者やコーディネーターの方々の想いもまた複雑なのではないかと思うのです。
 
 悲しい話ですが、世の中、命の重さに差があると考えられているようです。『たすかる』『助からない』の基準で優先順位を判断する災害時のトリアージでも適応されているように、命には「差」があるのは確かなようです。それは人間対人間の、有限の中での事であり、それを言うなら今この世の中全ても、人間対人間の有限の医療社会。以前の職場でそういう話になった時、小児科医が

「どんな状況であっても、80歳の大人と5歳の子供を選べと言われれば、僕は間違いなく5歳の子供を選ぶね。」

 と堂々と、それはそれは確固たる意志の元で話していたのを思い出しました。それは小児科医と言う肩書を持つからと言うだけでないのかもしれません。細分化した今の日本の医療で、80歳の大人を助けられる技術を持っている人が5歳の子供を助けられるかと言えばそれは分からないのです。逆もまた然り。けれどもその小児科医は、どちらも助けられる技術をもっているとして、5歳の子供を選ぶというのです。

「命に重い軽いはないなんて、嘘だよ。」

 と。医師がここまで言うとは・・・

「子供を救う事の方が、有益。」

 と言える小児科医の確固たる考え方、それに賛同出来、それが確かな自分の哲学となれれば、この脳死移植の話でもやもやした気持ちになることはないのかもしれません。

 本当に、命に差はないのでしょうか?
 死んでいい命があるのでしょうか?

 ・・・何となくそういう風に「いい悪い」で判断すると、また別の疑問も生まれそうなんですが、今回の移植で話題になったのは、ドナーが未成年であるという事。10代の脳死というだけで悲しい話、10代の臓器提供という切なくも恭しい話。けれどそこに、

「10代のドナーが救うのが、大人のレシピエントであるのはおかしい。」

「少なくともドナーの年齢より下が提供範囲内であるべき。」
 

「子供が死んで大人が助かるってどういう事なの?」

 との意見がある。

 ・・・・何故?と思う。私は移植医療には全く頓珍漢な医療従事者ですが、ドナーとレシピエントの間には、乗り越えるべきさまざまな問題があるのは知っています。血液型、体格と言った基本的な問題から、人間の持つ能力と能力の相反する作用による弊害、免疫と言う砦まで。勿論、ドナーが若いというだけあって、おそらくレシピエントも10代の子供中心に考えられたはずです。けれども、10代の患者より重い状態で、移植と言う優先順位ではるかに高い大人が選ばれるのは、許されない事でしょうか。 (因みに、移植を切り出す現場の医師は、その患者の臓器を誰に移植するかのvがあるかは全く知らないはずです。『合う方がいれば』という前提で話をするはずだと思いますので、○○さんを救いたいから臓器提供を進めようという悪代官のような話にはならないと思いますし、悪用されないように間にコーディネーターが入るようになっているはずですが・・・。)

 移植医療では、「待つ」事が一つの試練です。それは運を天に任せる賭けのようなもの。移植医療自体、賭けのような医療。待っていてドナーがなければできない医療です。あるいは、待つしかない医療。その待機時間の状態のコントロールこそ、重要。
 移植しても拒否反応で成功しないこともあります。手術が成功しても、その後安泰というわけではありません。 移植の順番、レシピエントの判断基準は、私にもわかりませんが、今回ドナーが未成年だから未成年にと言う理想がかなえられないのも、免疫や病状の進行によるものが考慮されたのだという事は察しがつきます。むしろ移植を受ける側がある程度の子供であればあるほど、適合性の高いドナーが必要なのではないでしょうか。どんなに適合性が良くても、移植を受けると生涯の投薬が必要になると言われています。(今は違うのかな?) むしろ子供であれば、ながい間の投薬が必要になるからこそ、より適合性の良い臓器が必要なのではないでしょうか。(あまりに子供だと、免疫が発達していないから少々の不適合は大丈夫かもしれんのかな?)

 おそらく、未成年のドナーという事で、移植をコーディネートする医療従事者は、かなり考えられたと察します。出来れば同じ10代へ、出来る限り可能性の高い移植へと、選択肢を絞ったと思います。そこにいろいろな選択の難と葛藤があったはずです。ドナーが未成年でなくとも、レシピエントを選ぶという行為に苦渋の決断がないはずがありません。何故この人ではなく、あの人なのか、そういった葛藤を医師たちは必ず持っているはずです。そうした人間的な苦悩が、次の移植医療の躍進に繋がるのではないでしょうか。

 未成年の臓器提供第一例目にしてぶつかる壁。

 移植医療では、10代だから10代に移植できるとき限らないこともありえます。私みたいな素人が言うのも何ですが、それが移植医療。世の中、こういう風に命を考えるものなんだなと、私も不思議に思い、びっくりした意見でしたが、あぁそうかとも反面思いました。
 世の中は、やはり大人より子供の命の方が重いんだなと。終始命の近くで働いていると、その命がどんな風に奪われていくのか、消えていくのかを見て触れていると、分からなくなることがあります。命の重さに差はないのだと信じていたいのに、それは半分きれいごとなんじゃないかと・・・。
 
 移植医療は、生体肝移植のできる臓器以外では、『死を待つ』医療です。

 言葉は厳しいかもしれませんが、まさに誰かの命を持って誰かの命を救う事なのです。そこには災害時のトリアージのように、助かるか助からないかと言う命の判断があります。言葉の響きは悪いですが、言い換えれば、助からない命が助かる命を救う医療。
  
 命の重さ、助かるか助からないかという事は、ドナー側で考えると悲しく残酷な話。命に重さの差があるから、その人は死んで誰かが助かるのだというのではなく、ドナーは誰かを救うために死ぬわけではないのです。死があるから移植医療がある、移植があるから死があるのではないのです。どちらからか一つの方向から物事を偏ってみていると、見失う事が多すぎます。死後誰かを助けるドナーとなる、そこに命の最上級の重さと尊さがあるのは確か。

 脳死移植医療は、誰かの死を待つしか手がない医療。けれども、助けたいがために誰かの死を待つのではなく、誰かの死が史上最高の善意として差し出されるのを待つ医療です。死を待つのではなく、ご家族、本人の意思を待つ医療です。
 それでもそこに『死』がある限り、悲しさややるせなさや、言葉に出来ず昇華できない思いが渦巻くのは確かです。 私も不勉強なまま、何となくの思いで綴るので、なかなかうまく伝えられないのですが、世間の思いと医療者との間にある考え方の違い、とらえ方の違いに困惑し、そしてどちらにも正論があり、自分の考えが上手く確立できないもやもや感でいっぱいです。

 そして一つ確実に感じます。

 私の考えがどうのと言うよりも、10代の臓器提供、レシピエントがどうのと意見を出すよりも、命の重さやつながりや助かる助からないといった判断や医療のなにがしよりも、私たち医療者が一番大切にする事は、今回に限らず臓器提供を申し出てくれたご本人やご家族、関係者の大いなる決断の素晴らしさと有難さを心にとどめておくことです。

 まずご両親が移植に承諾してくれなければ、この移植と言う物語は始まらなかったのです。

 移植を成功させる医療者に寄せる賛美よりも、決断をしてくれたご両親こそ、私たちが敬うべき相手なのです。移植技術の向上は、その限りない善意の上にあってしかるべき進歩なのでしょう。今まで臓器提供を承諾してくれた人たちの思いを受け取ってなお、まだ日本の移植医療が稚拙で向上しないものなら、それは命に対する侮辱のようなもの。
 そうして、海外の移植医療は進んできたのだと思います。命に対する深い造詣と慈愛や畏怖、そうしたものが宗教的にも深く医療に浸透していたからこそ、逆に移植が進んできたと言えるのかもしれません。

 法律や判断基準や技術をどうこう言うのも大切な事ですが、矢張りご家族の尊い決意あったからこその話なんです。

 父親と母親と、二人の命を継いで子供があり、その子供が別の命を継ぐ。命は命でしか生まれず、命は命でしか救えないという事なのかな・・・。

 近畿で行われた心臓移植は、無事成功したと報道されています。誰の文句なく10代から10代へ移植された心臓の鼓動は、まだ止まっていないということです。

 心臓は、記憶を持つと言います。

 以前、心臓移植を受けた患者さんの手記を読んで、そういう件があったのを覚えています。その手記は海外のものでしたが、若いドナーから心臓を移植した年上の女性の手記だったと思います。食べ物の好みが若者のようになったり、嫌いだったはずの炭酸飲料を好んで飲むようになったり、今までしたこともなかったスポーツを楽しむようになったりし、不思議に思って聞けばそれは全てドナーの若者が好きだったものだという事らしいのです。
 別の手記でも、その人の好きだった食べ物など、殊に「好き」なものに関する記憶が多いような気がします。

 心臓が蓄積させる記憶は、「心地よい」もののようです。今回の心臓移植でも、心臓の中にある楽しく嬉しい記憶の一片は、別の誰かの「好き」にも影響を与えるのでしょうか。

 二人分の記憶、二人分の心臓。
 新しい人生に幸多かれと思うのであります。
 
                          

 私は、臓器提供はいくらでもOKだけど、臓器移植はしなくていいとかな・・・。病気になっても、生きて生かすべき理由もないし、 守るものもないしなぁ。多分親も私が今脳死になったら、結構ホイホイ臓器提供OKすると思う。
「考えたって仕方ないし〜。使えるんなら使ったら? 持って行けず焼いちゃうだけだし。」とか言いそう…。

 自然災害で今回の地震や津波のように、一気に人がたくさん亡くなる事故があると、命って、生きるって何だろうって考えます。普通に生きているのに自然災害で一瞬にして亡くなる事に、何の意味があるんだろうって。どういう考えで神様はこんなにたくさんの人を一気に召してしまわれるんだろうって。
 でもそれには、答えがないんです。自然災害で人々を押し流した当人ではないのですから。誰しもが一人で答えを探すしかないのだなと思います。それが残った私たちの役目であり、次に自分が同じことに見舞われた時、残す人たちに継ぐ想い。他人事ではないんだろうなと思います。そう考えていたら、今日は船に取り残されて転覆する夢を見てしまいました・・・夢占いでは凶なんだよなぁ…。

 こんな時だからこそ、世の中が移植医療に敏感に反応してくれるんだろうな。ほんとにほんとに、未成年の脳死患者さんの臓器提供の決断は、途轍もなく凄い意志と慈愛と善意、そして苦悩と葛藤と悲しさもに満ちてるものでしょう。言葉で表現できないものだと思います。だからこそ、今後ドナーさんのご家族を、ちゃんとケアしてあげて欲しいと思います。

 必要なとき生きていて、必要なときに召される。

 何もかもが偶然であっても必然なのだと高校時代に教えてもらったけれど、その『必要』の部分は語られないし、『必然』の部分も語られることはない。全ての答えは自分の中の闇に隠れたまま。

 謎。一人で考えるより、こういう問題って議論した方がすっきりするんだけど、話す相手がいない!!!!

 ・・・・昔は良かったなぁ・・・・とふと思う。

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