〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪

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<<   作成日時 : 2012/07/06 02:35   >>

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 暑さよりも湿気でダウンしそうな毎日。
 それでも団扇一枚で生活するワタクシ、うまうまさん。

 最早、意地?

 ・・・いいえ、エアコンの掃除もしていないし、まだ衣替えもしていないので扇風機も出していないだけ。



 振り向けば、奴が・・・・


     電気ストーブが・・・・!!!!!



 ひぃぃぃぃぃぃっっっ!!!!

                  ♪

 そうやって恐怖体験で遊んでいる訳ではないのですが、隙間なくきっちりと入っているクローゼットをかき回して扇風機を出すのも、衣替えをするのも単に面倒くさいだけで。
 数年前に後輩からもらった郷土愛・広島東洋カープの赤い団扇だけが私の涼であったりします。しかも、まだこのころカープのユニフォームは縞々ではない。

 まぁ、まだ大丈夫ですけどね。

 さて、ブログもそろそろ快調に頑張っていかなきゃいけないなと思いつつ、毎日の生活にネタを探しているわけです。

 書いたらきりがないほど、うちの病院は面白人間がいっぱいなんだけども、あんまりブラックなネタも個人情報も書けないので、なかなかこれというものが無いわけですよ。普通に生活してて毎日びっくりネタがある訳もないんだけどもさ。

 して、この夜勤中も、不思議ちゃんやら重症さんやら軽症さんやら、結構いろんな人たちがやってきました。

 病院に来る人の中には、患者さんと言われながらもちょっと違う患者さんっているものです。

 寂しい病というか、かまって病というか、優しくされたい病というか。

 現代病ですよ、一種の。

 こうした人たちのイメージとして、一人暮らしで独り身で、誰しも接点がないような感じがするのですが、不思議な事に、「気持ちが病気」になってる人の半分、いや半分以上は、お付添いの方がいるわけです。つまり、お一人ではない。家族だったり配偶者だったり、友達だったりとした人が、関係の深さや浅さとはまぁ置いといて、一緒に付き添ってやってきてくれるわけです。

 看護師として患者さんに関わりながら、「この人は一人だろうな。」と思える人はいるものですが、いわゆる外来の困ったちゃんと言われる人たちには、大抵身の回りに誰かが居たりする。けれども、やっぱり何かしらの「情」を求めて病気になる人が居るんです。医療用語では不定愁訴とか言われるものの部類なんでしょうが、病院にはそうした「病気ではないけれど症状を訴える」人が患者という肩書でやってきます。

 主訴だけで来院する為、特別客観的な何か異常がある訳でもなく、結局診察と称して医師が丁寧に話を聞き、看護師が声をかけ、アドバイスのようなことを話して終了します。

 しかも、うちの救急外来の第一診察は研修医。医師になりたてで、患者さんから話を聞くのも要領を得なかったり、診断に自信が無かったり、取りこぼしたら大変という危機感がより強い人たちなので、話を聞くという診察だけでも物凄く丁寧(?????)で長いわけです。

 でもこれが、実は功を奏していて、話を聞いてもらって、親身に診察してもらって安心して梳く、という人が多いのですよね。怪我の功名、という訳ではないのですが、お互いの安心の求めかたが同じだったというか。
 で、患者さんはまた気が鬱々としたら、「良く話を聞いてもらった医師」のいる病院へ、再びやってくる、というのを繰り返すのです。けれども当の医師は、経験を積めばそれなりに自信がついてきて、あしらい方も上手になり、仕事にも慣れてピノキオの如く有頂天になっているわけです。いつまでも初々しくおどおどした研修医ではないのです。

 となると、この間とは違う・・・と言う思いで、診察は終わったのに数日後、また気の症状を重くしてやってくる、というのを繰り返します。

 そうして、病院には病気ではないけれども病人の患者差さんが増えていくという事になる訳で、そういう事になれてくると

「困ったちゃんが多いわ。」

 と、辟易する訳です。
 精神疾患の人が多い、というのではなく、心の闇が深い人が多いというのでしょうか…・。

 で、話は戻りますが、そう言う人たちの多くに家族がちゃんと付き添っているという事。私、これがとても不思議でならなかった時期があります。家族が家族の面倒を看る、というのも変な言い方ですが、家族として同じ屋根の下で長い子と暮らしているのに、どう見てもおかしな理由で病院を受診する家族が「不思議ではないのか、不思議でした。

 私ならば(普通なら、という言い方は変なのでいいませんが)、家族の誰かが

「夜中に起きたら汗が凄くて。クーラーはきいているのよ。病院に行かなきゃ。」

 とか、

「さっき、何か暑いな、と思ったら熱かあった。病院に行かなきゃ。」

 とか、

「便秘でウンコが出ない。病院に行かなきゃ。」

 とか、

「気分がすぐれない。」

 とか

「寝付けない。」

 とか・・・・

 言われたら、「はぁ!?」って思うし、必要ないって言います。病院が必要な状態であったとしても、救急に行く必要はないと思うし、救急に行くぐらいなら一般外来に行こうと諭します。

 判断材料があるから、ということではなく、一般的にそういうものだと思うのですが、今は違うのです。
 家族もまた、家族の不安に不安になってしまっているので、第三者であっても信頼の小腸のようなひせょういん、何かあっても助けてもらえる病院、優しくしてもらえる病院に駆け込んでくる、という訳なのですよね。

 全部が全部そうではないのでしょうが。
 家族もその考えや行動が『おかしい』と思っていない事もあるし、逆に『おかしい』と思っているからこそ手が付けられないので病院にお任せしたいと思ってやってくることもあるんですけど。

 思う事は、家族が家族を支えられているのかどうかという疑問。

 身内を病院に丸投げしたり、精神的におかしいから面倒くさいと、その行動について回るだけの家族だったり。子供の頃は、親が善悪を判断してくれて居ましたが、その親の善悪の判断基準も怪しくなり、判断する親もその自分の判断に不安や疑問があるから、とにかく専門に頼ろうとするわけです。
 気持ちは分からなくもないです。けれども、人間の生活と言うのは複雑に色んな要素が組み合わさっているもので、医療だけではどうしようもない所も沢山あります。それを全部医療に丸投げっていうの、どうかと思ったり・・・。

 医療では人間の体を細分化して専門家したりしているけれど、生活と同じよう人間の体もい面な要素が組み合わさって動いているものなので、科と科との隙間の様な部分にはまり込んでどこも専門的に見ることが出来ないことだってあるのですよね。それを「何もしてくれない」と怒られたりするわけです、こちら。

 家族が家族を律する、家族が家族を支える、それだけで心の鬱々とした感じは無くなるのになぁと、家族付き添いで喚いている人達を眺めながら思うのであります。

 心配だからという家族の気持ちもわかりますが、その『心配』のベクトルも変だし、『心配』なのははたしてその人なのか?その人に対峙する自分自身なのではないか?と思えたり。

「変な人が多いよね…」

 とは、どこの病院でも常套句でしょうけれど、人の物差しは人それぞれで、価値観もそれぞれで、人はそれぞれ自分が「まとも」の代名詞なんだから、相容れられなければ変な人なんでしょうが、最近とみに、人と人との物差しが重なる部分が少ないなぁと思う訳です。

 看護師というか、医療従事者でいることは、ある意味とても損なこと。
 ある意味とても良い事ではあるんだけども、一番関わりたくない人間の部分と対峙していかなくてはならなくて、そしてそこに慈愛と矜持を持っていなければならない職場。

 病気ではなく、人を丸ごと心も体も社会環境や生きてきた人生、これからの未来まで受け入れる職場何だなぁと思う訳です。それでもって、その人だけでなく、家族も対象なのですからね。

 

 困ったもんだ。
 何を書いたんだか、分からなくなってきたぞ。

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