〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪

アクセスカウンタ

zoom RSS 選択。

<<   作成日時 : 2012/10/25 08:23   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 前回ブログを更新してから、数日・・・ではなく、じゅぅ数日経っていましたとさ。しらなんだよー。誰か教えてくれよー。

 って、気づいていたのですが中々更新する元気がなく過ごしていました。

 おかげさまで頭痛はその後徐々に消失し、今は慢性の肩凝りと闘っているだけです。なのにこの3日間、ご飯もろくに食べずに床で行き倒れ生活をしていたので、またまた筋肉痛発症です。
 ご飯を碌に食べていないのは、家に食べるものがないってだけなんですけどね。

 こんなこと書いたら、よっぽどな生活してるのかなぁと思うのですが・・・・そーですね、余程の生活・・・かもしれんなぁ。潤いもないし。


                      ♪

 生活、という面での事なんですが、都会に来てからというもの、生活保護という方々には本当に色々関わってきましたが、ある意味生活保護の人たちって、恵まれた生活をしているのですよね。医療費もタダだし、タクシーチケットもらえたりするらしいのです。私はそういう福祉に関することが全然分からないのですが。
 
 人にはそれぞれ生活があって、その生活の質とかレベルとかもばらばらで、満足する粋もばらばら。自分の身の丈で生活する人もいれば、もっともっとと考える人もいたり、逆にどうでもよくなっちゃったりする人もいるわけですよね。
 人々の価値観っていうものは自分も含め、生活の環境、状況、自分自身の背景などによってコロコロと変わっていく事が往々にしてあるものです。別々の家庭で育ってきた人たちが一緒になって生活する「結婚」とか『共同生活』とかが分かりやすい例。
 自分の生活が主体だったころには、部屋が汚れているのなんて全然気にしなかったりするのに、結婚して家庭を持ち、旦那さんと暮らすようになって気になり始めたとか、子供が出来て考えるようになったとか、逆になんにも感が偉くてずぼらになったとか、相手の価値観に寄り添ってしまったり、妥協が次第に当たり前になってきたり。きっと、毎日の事だからいつもいつもイライラするのが嫌な防御反応的なものでもあるんだろうけど、それはそれでぜんぜんOKな変化。 と言っても、常識的な範囲でってことなんだろうけど。

 同じことが病気の場合にも言えて、病気になったり後天的に障害を得たりした際、今までの自分の価値観を変えざるを得ないことが出てくることもあります。病気のためにいろいろ気を使わなければならなくなったとかもあるだろうし、必要に迫られて諦めたり捨てたりしなければならなかったものだってあると思います。
 具体的なものがあれば、それに代わるものが出来るのは簡単な事ではあるんですが、変わらざるを得ないものが価値観だったり、生きざまだったり、自分自身のアイデンティティに関わるものであれば、分かっていても大変な苦痛と困難を伴う事は確かです。

 私たち看護師は、そういう場面に出くわすこと、ましてやそういう変化を強要しなければならない事だってある訳です。一番辛いのは本人であり、そう提案せざるを得ない医師であったりするのですが、その変化を生活に受け入れる為に寄り添っていくのは家族や看護師だったりする訳です。まぁ、看護師なんて当人や家族とはまた違った立場ではあるんだけど。

 自分には不利益になっても『価値観』を選ぶか、自分を大事にして「何か」を捨てるか、それは答えのない質問で、2択でありながらどちらも選択し辛いものです。自分よりも家族の意見を大事にする方、自分自身が大事な方、自分よりも『価値観』や「生きてきた意味」が大事な方、本当に人それぞれです。それは誰にも選択できないもので、悩んでいるうちにどちらにも転べなくなったり、どちらかに偏ったりして、不本意ながらその道を選ばざるを得ない事もあるものです。だからと言って、そういう判断は早い方がいい、という訳ではないのですけど。

 病気に限らず、日常生活に限らず、よくこういう事は起こってはいるんでしょうが、大抵は笑い話にしたり、どちらを選んでも対応できるだけの余裕があったりするものですが、病気・障害の場合は別です。

 私たち看護師は、患者さんの命に関わる場面でこういう選択に携わる事が多いです。
 
 自分が病気であることを受け止める場面、そのあとの生活を考える場面、のちの未来を考える場面、生きざま・死にざまを考える場面・・・。

 中でも、救急外来で関わるケースとして、病棟から申し送られることがあります。

「最期を自宅で迎えたいため、自主退院されました。状況的には○○な状況で、△△な事が予測されます。その場合、救急車での来院も考えられますので、お受けください。」

 という場面。
 自宅で最期を看取るという事が、何とも難しい日本の状況。特に都会では、病院は嫌だから最後を自宅で、最後まで自宅で、という思いが最後の最後、病院搬送という事が多いです。
 それは私が「最後を自宅で」と思う気持ちの意訳をし過ぎなのかもしれません。どうしてもの場合、病院に行かざるを得ない現在の看取りの医療。
 
 ここにも、どちらを選ぶかの選択はやってきます。自分の価値観のために、命を縮めても自宅に戻るか、自分の命のために病院にいるか・・・。何かのために、という意味合いは人それぞれですが・・・。
 人はそうした場面で、大概『価値観』を選びます。それはある意味自分自身のため、と言えるのかもしれませんが、命よりもどう生きたかが、人間には大事な物なのだとわかる瞬間です。

 死にざまは生きざま、とは言ったものです。自宅で家族に看取られながら・・・その場面を望む人たちの、本当の願いは、何なのだろう?と考えることがあります。ただ居慣れた自宅にいたい、病院がいや、というだけではなく、そこに何らかの思いがあるのは確かです。
 それは何なのか、私は長い看護師人生の中で今まで聞けずにいる質問の一つです。

 それでも、最後の最後、病院に来ざるを得ない現代の医療。総合病院にかかっている人ならなおさら、看取ってくれる医師は病院にしか居ない、というのが事実のようなものです。看取りの出来る開業医さんの少なさは、少しさびしいですけど。
 自宅で亡くなると、病気療養中で幾ばくかの命しか残っていなかった、という実際を知らない人々にかかると、「異状死」として警察の扱いになります。だからこそ、自宅で最期を看取る場合の医療の重要性が高くなります。はっきり言ってしまえば、病院で亡くなる方が事が楽、というのが言えるわけです。

 けれども、最後を自宅で迎えたい、自宅で看取りたい、その思いは私も共感できるものがあります。だからこそ、最後の最後で病院に連れられ、救急外来のベッドの上で亡くなる患者さんを看るにつけ、何だか申し訳ないような気にもなるのが実際。 その方の『価値観』を、本当に大事にして看れたのか、不安になるのです。

 私には突発的に祖母を亡くした思い出と経験しかないので、病気療養後の最後というのは患者さんとの思い出しかありません。病院で亡くなる事を後悔しないように必死に看護した思い出だったり、安心してもらうための思い出だったり・・・。

 病状が悪化して病院に来、そのまま時間を置くことなく亡くなられた患者さんに対して、

「最後の瞬間まで自宅に居られたんだから、良かったんだよね。」

 という言い方で看護師は気持ちを誤魔化すことがあります。
 最近、この言葉が本当に「良かった」のかどうか分からないのだなという事に気づきます。亡くなられた方にどうかと問うことも出来ず、残された家族が「これでよかったのだ」と納得していれば、それはそれで正しい事なのだと思ってきましたが。

 先日、まさにそういう患者さんに遭遇しました。病院が嫌で、退院して自宅で療養して来た患者さん。病棟からも申し送りを受けていましたが、しばらくの間音沙汰もなく、記憶の端っこに行ってしまっていた患者さん。
 突然の激痛で病院に搬送、そのまま入院、朝を迎える頃に亡くなられた患者さんです。

 ・・・・本当に、これでよかったのかな?

 病院で対応させてもらった自分の看護の在り方、病院の考え方、医師の関わり方に、凄く凄く疑問が残りました。ご家族の方は何度も、

「それで良かったです。安心しました。来てよかった。」

 と言ってもらえたのですが、当のご本人からは『病院がいや』というイメージしか受けることが出来ず、結果安心して頂けたのかどうかも分かりません。何かもっとやれることがあったのではないか、自分の判断が間違っていたのではないか、病院が、医師がもっと患者さん本位で考えてくれたら・・・。
 もちろん、病院にいる患者さんはその方だけではないし、亡くなられそうという患者さんだって一人だけではありません。誰かを特別扱いをする訳にも行きませんし、誰かを蔑にするわけにもいきません。どんな状況であれ、至らない部分も、手が届かない部分もあるものです。

 それを差し引いても、最期を迎える患者さんに出来ることが、もっとあったのではないかという思いは、私だけではなく担当していた看護師にも大きくあったのではないかと思います。

 救急ではほぼ一瞬の関わりになりがちで、その人の『価値観』を大事にする看護ができているかどうか、曖昧です。病状が最優先され、そのために『我慢』を強いることの方がずーーーーっと多いです。だからこそ、その人の2者択一の場面で、否応なく道を決めつけてしまう事が多い気がします。
 
 その人にとって何が大事なのか、病状との兼ね合いの中で、何を捨て何を得る事が出来るのか・・・。最期を迎える人であっても、捨てる物ばかりではないはずです。最後だからこそ、得る物の方が多い最後であってほしいと願うものです。

 救急では、突発的な『死』の体験の方が多く、緩やかな『死』の経験は少なくなります。突発的な物事に対する応用力や必要の見極め、ケアには強くなりますが、どこか『緩やかさ』に鈍感になりがちで、そこに在る大切なものを忘れがちです。
 2つの『死』には、別々の大事なものがあり、ひとそれぞれの大切なものがあり、人の生き様が一つではないように、人の死にざまも一つではないのだと感じます。


 看護師として、私は本当にまだまだなのだと痛感した出来事でした。

 人は生まれる過程しか、同じものがないのですね。

にほんブログ村 犬ブログ 犬 闘病生活へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
にほんブログ村

2011.10.21より参加しています。ぽちっと応援よろしくお願いします。

初心者なので、どの記事にもどちらも載りますです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
選択。 〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる