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<<   作成日時 : 2009/05/28 00:27   >>

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 看護師ならば誰でもそれなりに体験があるものといえば、どんな事を考えるでしょうか?採血とか点滴とか?
 
 様々な体験の中でも、逃れられない死だったり突然の宣告だったり、エリザベス・キューブラー・ロスが打ち立てた「受容の段階」の一番初めから、私達が見守るケースも多くあります。
 私は時々「遠くへ逝きたい病」が勃発するけれど、それは贅沢な悩みだと痛感するのが、こうした看護師だからこそ対面する場面に出会った時だったりします。それは大概生命に関わる事なので、どうしても辛くて痛い事が多いのです

 今日感じたのは、手術室は時に、その「受容の段階」を踏み込む前の段階で、患者さんよりも先に、きっと辿るだろう「その先の未来」を見てしまうことがあるんだという事なんです。

 人間は生きているだけで奇跡を起こす事が出来る生き物なので、実際は病気からの生還という事だってありうるし、余命宣告をもろともしない時だってあります。けれど、一般的にそれは「稀」な事。余命宣告が外れるのはよく起る出来事ですが、それでも伸びただけでなくなった訳ではないんですよね・・・。

 病気を宣告されて、生命の期限を突きつけられて、そこから始まる葛藤と受容への道程。最後まで「受容」に辿り着けない人もいるかもしれません。早い段階で駆け上がるように受容した後、残りの人生を華やかに全うする人だって居るでしょう。それはその人の生き様であり、生き方であり、選択だったりします。支える人達の励ましだって重要です。

 手術室看護師は、時に、その前段階を体験することがあります。

 それは、当の患者さんが知りえない「これから先」を決定付ける瞬間をみるという事。
 患者さんは目の前の受容への階段を登る前、その階段すらまだ見えていない段階。

 変な例えですが、ポルノグラフィティの「A New Day」です。その角を曲れば在るだろう「病の宣告」と「余命」そして「受容への道程」のシナリオを、主人公よりも先に読んでしまうんです。
 歌の中では、もうすぐ楽しい事、嬉しい事が待っているはずなのに、何をためらっているんだい?って歌われてますが、逆にその角を曲ってぶつかるものが、楽しい事だけではないのだと知ってしまうんです。

 それは、病棟看護師であった頃にはあまり感じなかった、命の現場でのやり取り。医師が診断を下す、目の前で結果が出てくるその瞬間に立会い、その場を見、その結果を共有するのが、手術室看護師という立場なんです。

 嬉しいことだってあります。難しい手術の成功を見たり、悪性だと思って開いたら思わぬ事で救われたという事だってあります。

 けれど、逆の事だってあるんです。
 そして逆の事の方が、手術場という現場には似合わない舞台設定。

 手術は、命を繋ぐものだと、思っていました。
 命はつなげなくとも、生活の質を繋ぐものだと・・・。

 命も繋げず、痛みからも解放されず、生活への輝きすら磨けない手術が、ごく稀にあるんです。


 今日、医師がメスを握った症例は、医師が無念の思いのままでメスを置くしかなかった手術でした。


 私はその患者さんの側にいて、一番近くで見守りました。
 全身麻酔の醒めた患者さんが、痛みを訴えるたび、どうにかして欲しいと麻酔科医に縋りました。


「ごめん、うまうまさん。本当に悪いんだけど、私にはこれ以上何も薬は使えない!!!! 使ったら、手術室から出られなくなるよ!!!」


 麻酔科医は、何とか出来ませんかと、患者さんの痛みを代弁する私に向かい、そう言って平に平に謝りました。無意識で私は先生にプレッシャーを与えて、どこか責めていたんでしょう。何もしてくれないの?と。


 麻酔科医は、私にそういって謝り頭を下げた後、痛みによって麻酔の覚醒が進み、はっきりと意識が戻った患者さんに言いました。


「ごめんね、○○さん。本当に何も出来なくてごめん。けど、ここから出られなくなるのはもっと嫌でしょ・・・。痛みをとってあげられないのは私が悪いんだ。でも、これ以上痛みをとることは、もう無理なんよ・・・ごめんね・・・。」


 メスを握った先生も辛かったと思いますが、麻酔をかけた先生もかなり辛そうでした。医学が何も出来ない事が、世の中にも人間の身体の中にも、沢山あることは分かっていたはずなのに、ただ痛みを取ると言う簡単そうにみえるたった一つの事すら出来ない事があると痛感して、何故かとても悔しかったんです。

 痛みは取れるはずなんです。けれど今、この場所に、この瞬間に、その選択を出来るだけの医師がいないということなんです。
 麻酔科医は確かに痛みの専門家です。けれど、全身麻酔からの覚醒をしたばかりの患者さんに、ましてや全身状態が不安定な患者さんに出来る最大のことは、その人の生命力を削らない事なんです。

 そして家族に、「手術が終わりました」と患者さんの温もりを届ける事。

 看護師としては、何も出来ません。痛がってむずがる患者さんに向かい、ごめんねといいながら、頑張ろうねと声をかけながら、痛いところをさすって、身体の力を抜くマッサージをし、声をかけ続けるだけ。別のところが痛まないよう、別のところに不備が出ないよう、環境を整えるだけなんです。

 泣き出しそうな気持ちと無力感。
 その場に居た医療者は、皆思っていたでしょう。
 患者さんが痛がる荒い息の下、ごめんねごめんねと謝る麻酔科医に、それでも

「いえ、いいんです。ありがとうございました。」

 と声をかけられるのが、とてもとても心に染みました。全身麻酔から醒めたばかりで、痛くてしんどくて、それでもありがとうと言える優しさ・・・。
 その優しさを全身に受け止めながら、私達はその患者さんが次の一歩を踏み出したとき、目の前に聳えるだろう高い高いハードルを、見据えています。
 「受容」への階段は、まだ始まる前。患者さんの目に見える前。

 その段階から私達の、「共に歩む」医療は始まっています。

 医療は、いつも側にあるはずです。

 私達の病院には、ペインコントロールを専門とする医師がおらず、十分なコントロールを確実にするには、多少の難があります。緩和ケアと呼ばれる専門の扉を叩くのがよいとしても、次の「医療者」へ引き継がれる、私達の医療。そうやって、医療は患者さんと共に歩んでいます。私達の医療だけでなく、どこでどんな医療を受けようとも、次の医療へ転換しようとも・・・。

 医療は人間と共に歩んでいるのだと、思いたいです。


 これから「受容」への道程を歩む患者さん。
 何段でもいい、先が見えないほど長くても仕方ない。

 けれど、

 一歩ずつでも、前へ進める階段であって欲しい。
 一段ずつでも、登っていける階段であって欲しい。

 立ち止まり、うずくまることがあったとしても、下る事のない階段であってほしい。


 「始り」の瞬間に立ち会う事がある、手術室です。

 
 命の始まりだったり、生まれ変わりの始りだったり、生還の始りだったり・・・

 そして、最後への始りだったり・・・。


 いいえ、人間は生まれ出た瞬間から、最後へ向かって生きている生き物ですから、誰しもが、「最後」に向かっているんです。

 それが『未来日のいつか』ではないだけ。


 破られるのが当然のような、「余命」と呼ばれるものに変わるんです。



 始まりは、静かでした。
 とても静かに、先生は言いました。

「・・・何も、出来ることがないんだ・・・・」

 そう呟くしかなかった医師の心を、どうぞ読み取ってください。
 感情の凍りつく音と、凍りついた感情が溶ける音、その二つを聞く、手術場です。

 明日も手術場は、患者さんの未来を見つめています。

 あなたの側に、私達の医療を・・・

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