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zoom RSS その眼は、どこを見るのか?

<<   作成日時 : 2011/06/14 01:33   >>

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 とあるきっかけで、とあることに出会う事ってたくさんあります。人との出会いもそうかな。知り合った人と話していたら、実は友達の友達だったとか。
 病院でよくあることは、初めて受診された患者さんと話していたら、

「実は主人がこの病院で亡くなってね。」

 とかかな。
 ご主人が病気で戦っているときはもう本人さんも必死で踏ん張っていたのでしょう、亡くなられて落ち着かれたときに今度は自分が命の瀬戸際に立った時、思わず『その時』の病院を選んでしまうようです。でもこれは、良い看取りが出来たからこその流れで、そうした場面に出会うときは、私たちも遠く離れた家族と出会ったような気になります。

「またよろしくね。」

 と言われるたび、少し複雑な

「はい、頑張りましょう。」

 を繰り返すのであります。

                        ♪

 そういう出会いも不思議な縁だけど、物との出会いもまた不思議。聞かれたわけでもないのに、誰かからプレゼントされたものがとても欲しいものだったり、気になっていたものが突然特価で手に入ったり、目の前に差し出されたり。

 いやいや、私が言いたいのはまぁこの情報社会の中で、ふとしたきっかけで出会う情報の中から、つながっていくものもあるというのもまた、ふとしたきっかけでふとしたことに出会うという事の一つだと思う事です。

 本との出会いもまたそうで、その出会いをさかのぼって、「どうしたこの作家さんを知ったんだろう?」と考えたら、何だかよく分からない状態だったりするものです。
 自分が普段まったく関わらない分野の事であれば、多分どこかの情報の中の一つだったものが心に引っかかって検索されたということになるんでしょう。そのおおもとの情報が、今はいろんなところから流れてくるので、テレビだったのかインターネットだったのか、果ては誰かの話ていることの一つだったのか、思い出せないこともあります。

 そうしてであったのが、

「地を這う祈り」  石井光太   徳間書店

 です。石井光太さん自身を私がどこで知ったのか分かりませんが、多分ここ最近名前をよく見るということはあると思います。東北の大震災のあと、すぐさま現場に飛んで、ツイッターで生のレポートを送り続けたと言って話題になった人です。ノンフィクション作家さんと言うのが私の見解ですが、ご本人はどう自分を表現しているのか分かりません。
 10代の頃に出会った海外難民キャンプでの体験から、貧困層を中心に現場の生の姿を日本に送り続けてくれている人です。彼らの取材対象は、物乞いの方、障害を持った方、世界の貧困層で暮らす人々、スラムの住人、売春婦等々、海外の知られざる「底辺」に生きている人々です。
 
 書いていて思い出しましたが、実は石井氏を知ったのは震災の関連記事ではなく、この間発刊された彼の「感染宣言」という、初めて日本を題材にした本の新刊書評を読んだからです。

 初めて日本を題材にした、という言葉に、「じゃあもとは何を書く人なんだろう?」と興味を持ったのが始まりだったよう気がします。曖昧だけど。それを思い出したのがついさっきだ・・・。

 こういった貧困層、私たち普通に生きている日本人にとっては「生きる世界」が違うように思える人々を取材し、一冊の本にまとめる、そしてそれを通じて、日本の人たちに『こういう世界があり、こうして暮らしている人がいるのだ』と言う現実を伝える。それによって何かを成すのではなく、ただ伝え続けるためだけです。

 だからなのか、結構勢いのある文章を書く人のような気がしました。自分の見てきた世界を唯一無二のものだと信じている、日本の生活も唯一無二で、スラムの生活も唯一無二で、つまるところこの現代に存在する確かにあるものなのだという確固たる自信、勿論あるものなんだから確かにあるものなんだけど、私たちはそれを『知る』事がないので、どどーんと突き付けられるような勢いを感じるのかもしれません。
 私たちは『知らない』事なので、「ほんと?」と思う事もありますが、そこに書かれていることに少しの誇張はあったとしても、大差ない現実があるのだと思います。表現の重い軽いだけの問題で、貧困は確かにあり、今も続いていて…。

 著者も若いので、血気盛んと言った感じも受けますが、私にはその現実が確かにあることを、そこまで力をこめて「ほら、見ろ!ちゃんと知っておけ!」と言われなくても感じているつもりです。だから、何となくの気分の悪さを感じたのは、「分かっているから、ちゃんと知っているから、ちゃんと見るから向き合うから、もっとゆっくり教えて。」という感覚なんだと思います。
 この日本にも、貧困はあります。生活保護、日雇い、路上生活、廃品回収、病院で働いていれば、嫌でも対面する格差や貧困。だからこそ、彼の言うところの貧しさの現実と言うのが少しは分かるのかもしれません。体感しているのに、『知ったつもり』になっていることも、『分かったつもり』でいたのではないかと思ってしまう激しさと冷たさと勢いがあります。それが日本ではなく海外の話だからなのか、まるで違う世界を見ている気分になります。けれども、そこにそうした現実があることは、何故かはっきりと『分かる』。いや、著者の勢いで分からされるのか?

 しかし、あまりにもすごすぎて「これは一体いつの話なの?」と思って解説を見ると、つい最近までの事です。1996年から2010年までの取材現場での事。

 マザー・テレサがいたインドでも、彼女が初めての人を看取ったその時と同じように、路上で息絶える人がまだいるのだという現実。そしてそれが当たり前のように生きている人々。

 何という事・・・

 私たちが文明を享受しているこの現実と、糞尿を垂れ流しながら物乞いをして生きていく現実のどこに、境界線は引かれたのだろう?こうして世界を分つ分かれ目は、一体いつの時代のどこなのだろう?どこで国々は富める国と病める国に分かれてしまったのだろう?何故私たちはこうした生活を送り、さながら毎日気に病むことは天気と電気と人間関係位のもので、彼らは数日に一度の一切れの食事。
 朝起きて、食事の心配をすることが日本人にあるだろうか?何を食べようではなく、何が食べられるのか、何を口に入れることができるのかと、そして何かを口に入れる為に、何を差し出すことになるのかなどと・・・。

 知って何かをするためではなく、知るという為の本です。むしろこの本は、彼の著書の抜粋のようなもので、これから一冊ずつ読了していこうかと思っています。
 
 こんな世界もあるのだと思いながら、それでも私は「似たような世界が日本にもある」という思いを消せません。これよりは日本の方がずっといいだろう、という感覚もあるでしょうが、マザー・テレサは『平和のためにはあなたの家族を愛しないさい』と言われ、『遠くの世界の貧困ではなく、自分の隣の貧しさに心を寄せなさい』とも言いました。写真の中の現実は確かにそこの国にある現実ですが、同じ現実がすぐそばにもあるのだという事を忘れないために、書店に並んでいるのでしょう。

「貧しい人々の事をとやかく言う前に、一人一人自分の良心を誠実に見つめなおす必要があります。」

 マザー・テレサの一言。

 貧困は私たちが生んだ現実。けれども、どうして生まれたのかが分からない。
 始まりの種が、分からない。切っ掛けは戦争だとか、政治不信だとか、支配だとか、言葉にすれば簡単に説明はつくけれど、その始まりの一滴がなんなのかが分からない。

 何故?

 なぜこんなことに?

 何故ここまで?

 どうして?

 絶えずそう問い続ける本です。
 けれど、誰に問うのでしょう?
 誰に問えば、答えが出るのでしょう?

 

 

 

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