〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪

アクセスカウンタ

zoom RSS never ending story?

<<   作成日時 : 2012/04/21 00:57   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 日付が変わっちゃいましたが、20日は私の3〇回目の誕生日でした。しってか知らずか、休日にしていてくれた師長さん。けれども何の予定もなく、普通に病棟ミーティングに顔をだす、無事是ナースな私。

 誕生日、思いのほか沢山の人からお祝いメールをを頂いたうえ、ポルノ仲間・・・いや、なんか意味合いが変わってくるんだけども、ポルノグラフィティが縁になって繋がれた友達なのですが!!!!そのお方の第二子出産も今日だったようです。

 にやっとくすぐったいうまうまさんでありますのです。

 自分じゃ、もう子供生むことも子育てすることもないだろうなぁとぼんやり予測しているんだけども(犬の子は別)、それでも世の中には同じ誕生日にわんさかと生まれてくる命があるのだなぁと、普通に当たり前のようなことを思わず身近に実感した次第。

 いつも書いているように、毎日が誰かの誕生日で、毎日が誰かの命日で、毎日が誰かの転換期なわけだから、365日どの日も大事に一日という事になるんだけども、それが自分に関わる事なのかどうかで、一日の重みが変わるわけですよね。

 はぁ〜、何だか今年の誕生日は、自分がとっても「縁」に恵まれているんだなぁと感じた一日です。

                       ♪

 そんな一日、別に世の中は特別にも感じることなくまわっているわけです。いつぞや、「ブラック・ジャックによろしく」の癌治療編を読んだ時に、余命宣告をされて死に行こうとする主婦が、「自分が死んでも世の中は変わらずまわり続ける。」という真理について話していた場面があるけれども、私には自分が死んでも世界は変わらずまわり続けることの当たり前さは分かっていても、それが死に向かう人にとってどれだけ大事なのかという事が分からないままです。
 生きている今の私には、それがとても「悲しい」ことのように思えるのに、死に向かう人はそれが「凄いこと」だったり「安心」だったりする。その心理にたどり着けない私は、いまだに終末期医療に関わる事が出来ないままですが・・。

 何度誕生日を迎えても思うのは、自分が途轍もなく中途半端で、何事も成すことの出来ない平凡すぎるところか、無生産な人間だなぁという事だったりします。何物にもなろうとせず、何事も成そうともせず、別に何かを成すことが大事なのではないけれども、評価できる何物もないという自分の人生は、一体これで意味があるのだろうかと。
 いつぞや、そういう事を考えるべきではないと言われたことがあるのですが、人生のうちきっと誰もがそれを考えるだろうし、そしてその葛藤の中で自分なりの答えを探して見つけて納得していくんだろうけれども、私はそれが見つけられずじまいと言うか、それすら見つけようともしないで逃げているような、そんなありえない自分の状況に気づいたりするのです。それが誕生日というものなのか???

 この空虚感、どこか自分の中で埋められない部分、何でそこに出来てしまったのかも、気付いてしまったのかも、もう『気づいた自分が馬鹿だった』と言うしかない部分ではあるんだけども、年を取るにつれて自分の存在や考え方の矛盾なり稚拙なり、何というかひねくれ感が、ますますその部分を大きくしているような気がしたりします。

 で、そういう自分から周りを見渡すと、流石に周りが秀でて見える訳です。

 あぁ、あの人はこれが出来る。
 この人はこれが出来る。

 そういう事を数えていったって仕方なく、それが全てではないとは分かっているのにねぇ。考えることがどんどん深く広くなっていくもんだから、視野がどんどん俯瞰的になっていき、だからますます考えることが大きくなって理想的になり、長所も見えれば短所も見える、だから思わず口にするけど、だからといって・・・という事が大きくなっていくわけです。

 つい先日、上司と話をすることがありまして。いつもぐだぐだといろんな小話をする私の事、面と向かって堅苦しく話すこともないんだろうけど、今年一年の始まりとしての面接のようなものです。

 そこで上司から、

「うまうまさんにとってこの一年はどんな一年でしたか?」
 
 と問われ・・・。
 言葉に詰まりました。

 考えた見たら、自分について答える言葉を持っていないと気づいたのは、この瞬間。

 周りは見えているけれど、自分がどうかなんて見てなかったし、考えたこともなかった気がする。

「・・・・・色んな事、慣れた来たからこそなんですが、いい事よりも悪い事の方が見えてきて、だからといってどうしていい分からない葛藤の一年でした。」

 とまぁ、そんな感じでした。

 誕生日にこんなことを考えている自分も変なんですがね。
 おめでとうという言葉に甘えているだけでも、十分な一日だと思うんですがね。

 きっとこれからの一年も、同じように『何か』を抱えて、求める『何か』が分からないままなのか、いつか見つけることができるのか。

 毎年毎年、挑戦の一年なんですなぁ。

                      ♪

 その誕生日、予定が入っていないのは相変わらずなので、自分を甘やかしに本屋さんに行ってきました。出て行くお金の方が多くて自粛ムードが続いている私のお財布ですが、この時ばかりは少しくらい・・・と思い、新しい本を買ってきました。

 というのも、つい最近ばたばたと本を読んでしまっていたので。

 買ったのは2冊。

「北里大学獣医学部  犬部!」   片野ゆか:著 ポプラ文庫

 と、

「たとへば君 四十年の恋歌」  河野裕子・永田和宏:著 文藝春秋

 です。

 実は、「たとへば君」は、ずーーーーーっと欲しくて欲しくて、読みたくて読みたくてって思っていた一冊だったのです。それも、文庫ではなく単行本のまま欲しかったのです。「紅梅」もそうでしたが、こういう類の作品は、文庫本よりも発売されたそのままの形で持っていたい気になる私なのです。

 河野さんと言う歌人を知ったのは、おそらく亡くなられる少し前の事だったと思います。どこかの記事で作品を読んだのが切っ掛けだったと思います。それがどの歌だったのかも実は覚えていないのですが。もともと短歌は俳句より好きで(分かりやすいので)、新聞の投稿欄とかも大好きなのであります。

 不意に思うのですが、言葉を紡ぐ人は、最後の最後までそうあり続ける魂があるような気がします。文字を書き、残すという事が、楽器を弾いたり絵をかいたりするよりもずーっと簡単に最後まで続けられるというのもあるのでしょうが、最後まで言葉を紡ぐ人であり続けるような気がします。 パソコンが普及して、鉛筆でものを書く人が減った今ではどうか分からないけれど。

 言葉の持つ凄さだったり、ぬくもりだったり、真理だったり・・・なんというか言霊という言葉があるように、本当に『言葉』にはたくさんの側面があって、沢山の思いがあって、それこそ言葉なんだけども言葉に出来ない感覚のようなものまで伝わる物なのだと感じます。
 
 そして言葉は、体温や匂いや、視線や存在感のような感覚とは違い、その中に含んだ感性ごと、残るものなのだという凄さ。
 源氏物語だって平安の時代の物語で、聖書だって、紀元前の物語が紡がれ、二千年たった今でも読み継がれているものなのです。
 それは作品として凄いというのではなく、歴史書として凄いというのではなく、そこに言葉があって、言葉が残っていたからこそのものなんですよね。
 表現しにくい事ですが・・・。

 日本には、その言葉を操り、短歌や俳句と言った限られた文字数の中で表現する文化があるわけです。その伝統の有難さ、優雅さに気付ける国際人であって欲しいと願うものですね。

 
 という訳で、「たとへば君」はこれから読み始めますのです。
 「犬部!」はもう読み終えちゃいました。

 その感想はまた後日・・・。
 おやすみなさい。

にほんブログ村 犬ブログ 犬 闘病生活へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
にほんブログ村

2011.10.21より参加しています。ぽちっと応援よろしくお願いします。

初心者なので、どの記事にもどちらも載りますです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
never ending story? 〜近畿☆瀬戸内☆うまうま交響楽団 ♪/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる